2012年
8月
23日
木
昨夜は雷で停電、暗闇で思ったこと。
昨夜は雷で数分停電した。暗闇の中でしみじみ思ったこと。
「平和」や「生命」の言葉の重さは、ぼくらの日々の生活や仕事、恋愛、娯楽などを沈黙させるような響きがある。
平和や生命は、そんな些細な日常生活の問題ではなく、もっと大切な地球や人間としての問題だと説教されそうである。
はたしてそうであろうか。
安定した仕事で平穏無事な日常生活が営まれ、恋愛や娯楽に興じることができる快適な生活環境が、平和や生命を支えることではないのか。
原発ゼロにこしたことないが、……。
平和運動家による反原発運動に惑わされず、将来のエネルギー計画には、もっと正確で、冷静な議論が必要だと思う。
8/21日付けのA新聞では、第1面に「節電進み、計画停電なしで、電力には余裕がある。原発は必要ない」主旨の記事がある。
GDPはエネルギー消費量に比例するのだが、上記の内容を国民が望むならば、いつの間にか、日本の経済は疲弊して、現在の快適な文化的生活は維持できなくなるだろう。
その覚悟ができているならば、納得しよう。
ぼくは、もちろん反原発ではない。脱原発でも無くて、正確には、脱・現存の原発である。
どんなことでもリスクはある。そのリスクを克服して私達の文明は進化した。原発も然りだ。人間の英知は不幸な事故を経験して、さらに優れてもっと安全なシステムを開発していくはずだと信じている。
電気なし、TVなし、自然のままで、人里はなれた古民家で晴耕雨読の人生を、とミーハー雑誌が盛んに紹介するが、その最たるものが、田舎暮らしの中でも知的情報はインターネットでとある。おお!、理解に苦しむ。—文明の利器を動かすエネルギーは何処からもたらされるものか。畑やかまどやいろり端ではない。
イザヤ・ベングサンが、「日本人とユダヤ人」で、
日本人は、水と平和はタダで手に入れてるものと思っている。と述べてるが、さもありなん。
一昔前のエピソードを紹介しよう。
家屋調査(シックハウス)の依頼で、伺った建物の軒天に石綿スレートが張ってあったので、「これはアスベストですね」と告げた時、それを聞いた主婦の驚愕の表情がいまだに忘れられない。
声にならない悲鳴をあげ、首を左右に振って、ぼくの言葉を拒否するように、そんな…と絶句した。
アスベストは小さく粉塵になったものが、飛散し、浮遊して、それを人が吸い込むことで人体に害を及ぼす。軒天に張られた板状の固形のものは、先ずは安心である。
かような、ぼくの説明を、半べそかいた主婦は黙って聞いていたが、彼女の頭はもう、パニックってるからどんな反応も示さない。
アスベスト君、今ではすっかり悪者になってしまったね。
世間では、何世紀にも及ぶ君の貢献度に聞く耳持たないから、残念です。
君の味方をすれば、棒に当たるか、石持て追われます。
中途半端な理解や知識はモンスターを育てるってこと。怖い話です。