2011年
10月
04日
火
ぼくのパースとは何ぞ
そろそろ自分で描くパースの目標を定めたいと思う。
パースという言葉自体,パースペクティブをはしょった日本の造語だから、海外には通じないし、その意味を知る者にはかなり抵抗がある。普通の人から、パース描けますかと問い合わせがあると、それはパースペクティブ(遠近法)で描けという意味ですか、それでしたら、とっくの昔から、絵でやってますけど、(写生や風景画を描く時に、自然に習得してる技術である)と意地悪な質問もしたくなる。
しかし、30年前は、建築家の学生か業界用語であったものが、最近ではアニメ描写技法によるものか、小学生でも知るようになった。このように「パース」が市民権を得てくると、いまさら、その言葉に、アカデミックな解説をレクチャーすれば、こちらの教養が疑われるってもんだ。
今では、「パース描けますか?」の問い合わせに、「ハーイ、パース(建物の完成を想像した絵)了解!」と気持ちの良い返事が即座にある。商売であるが故、日本であるが故。
最近では、権威のある方々が、パースでは格好悪いと見えて、建築レンダリングとか、建築イラストレーションと呼ぶようになった。言わずもがな、冠の建築はアーキテクトと横文字で表される。
これらの名称は内容を正確に伝えていいことではあるけど…、パースの名前がせっかく定着したのに、もったいない気がするな。
「このような建築の完成予想画は、日本語ではパースと言います」の方がクールジャパンだと思うが。
パースは「図面」を「絵」にすることで、建築の理解を大いに助けている。デザイナーですら、ちょくちょくラフのスケッチをして、自分の図面を確認していくのだから、施主や一般の人が、平面図や立面図で、完成後の姿を正確に把握することは難しい。そして、把握どころか、勝手に間違った姿でイメージされることも多々ある。建物が出来上がって、「いやあ、こんな風になるとは思わなかった」と施主が愚痴るのは、このようなイメージ違いが招く不幸な結果である。故に建築では、パースは必要不可欠のものとなった。現在では、図面とパースが一体となってプレゼンが行われることが望ましい。
ぼくのパースの目標は、建築家やデザイナーの意図を正確に伝えながら、かつ、カッコいい、イメージ画像を作ることであるが、この自明の理に加え、図面や計画の完成時に、同時に素早く仕上がることを条件としている。
だから、何週間もかけて造る、写真と見紛う、美しく見事なパースの制作はぼくの目指すものでない。
建築家とパース屋の二人でする徹夜が良い例だ。建築家は図面の制作を進行しながら、同時に、パース屋も着手している。コンセプトや基本設計は建築家が伝え、ディテールはパース屋が補足して、それぞれが計画図面とイメージ画を造って行く。夜通し、メールと電話でキャッチボールをしながら、お互いの整合性をチェックして、仕上げていく。朝方に、建築家が早じまいして小休止、パース屋がそれを追っかけながら、仕上げにかかる。午後のプレゼンで、建築家より、上手く行った、の朗報あれば、「ぼくのパース」の完成である。
パースは建築家やデザイナーと施主との円滑なコミュニケーションのためにあるものだと位置づけているので、建物が完成してしまえば、お役御免だと思ってるが、別の使い方もあるようだ。
真新しいとあるホテルに入ると、エントランス中央壁に、額縁に収まるパース絵が飾ってある。
ええ、なんでパース(完成予想図だから)がまだ必要なの?と思うけど、もしかすると、オーナーがパースを美術品として高く評価してくれたものか、ビルの谷間にあって目立たないホテルの威容をパースで知らしめたいのか、その意図は分からないが、このように建物完成後もパースが生きながらえることもあるのだ。———とすれば、パースの仕上がりもゆめゆめ怠り無く、額縁に収まるほどのクォーリティがなければ、パース屋は冷や汗をかくこととなる。
幸いにして、ぼくはどんなパースでもサインだけは固辞するので、自分のものが飾ってあっても、その前でそ知らぬ顔ができるのだ。